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5. 初期ヤマト王権を支えた物部氏の本拠地「布留遺跡」再訪Walk 2012.5.19.
1206furu00.htm   2012.7.1.  by Mutsu Nakanishi 
今まで 布留遺跡に抱いていたのイメージが随分 変わりました
天理参考館「大布留展」関連会 関川尚功氏「ヤマト政権の生産体制を探る」の聴講


5月19日(土)天理大学付属天理参考館で開催中の「大布留遺跡展-物部氏の拠点集落を掘る-」に合わせて開催された関連講演会 関川尚功氏「ヤマト政権の生産体制を探る?渡来系工人と玉造集団から見た布留遺跡」を聴講を機会に今は天理教の神殿をはじめ、天理教本部の諸施設や天理大学が立ち並ぶ「布留遺跡の天理市布留」界隈を再訪Walkしました。
私の知る布留遺跡のイメージは鉄器工房 でも今回布留へ出かけて、鉄器工房のイメージとは随分違う。
この時代の大和の鉄器工房はもっと先進的がと思いましたが、それはもっと先の時代のようです。
また、今回 gooogleの衛星写真を使って地理的位置を調べましたが、布留遺跡のある天理の位置が、奈良盆地の中で随分面白い位置、
また、中央を流れくだる布留川が、今とは違って氾濫をくりかえす暴れ川であったろうことも。 
本当に面白い布留再訪。 ちょっとは 頭の整理ができましたが、新たな疑問も・・・・・
皆さんには どのように 映るでしょうか  ちょっと長い資料になりましたが、図・写真が主ですので、お許しください。

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      ヤマト王権を支えた物部氏の本拠地「布留遺跡」再訪Walk 2012.5.19.
       今まで 布留遺跡に抱いていたのイメージが随分 変わりました
                    《 内 容 》
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1.
物部氏の本拠地「布留遺跡」 概 要
 検出された遺構と出土遺物から 見えてくる遺跡の姿を知る
 天理参考館 「大布留遺跡展・物部氏の拠点集落を掘る-」図録の再整理
1.1. 布留式土器の出土と祭祀の場  祭祀の役割を重要任務としていた物部氏
 【参考】土器編年と布留式土器
1.2. 物部氏の武具 武器製造を推測させる三島里中地区から出土した大量の把装具類
1.3. 物部氏の居館と物部氏が営んでいた玉作り・鉄器生産工房 布留遺跡
物部氏の中枢 杣之内(樋ノ下・ドウドウ地区 & アゼクラ地区・三島地区
1.4. 物部氏の武具 武器製造を推測させる三島里中地区から出土した大量の把装具類 .
1.5. 渡来人と工人集団【1】 韓式系土器などの遺物の出土
1.6. 渡来人と工人集団【2】 渡来工人の群集墓 赤坂古墳群
2.
随分印象が変った私の「布留遺跡」イメージ 
大布留展&関連講演会に参加して鍛冶工房だけではない遺跡の姿も見えてきました
2.1. 抱いてきた布留遺跡のイメージ 「ヤマト王権の鉄器生産工房」 
狭山博物館 平成19年特別展「国土を拓いた金物たち」図録より
2.2. 随分印象が変った私の「布留遺跡」観 大布留展 &  関連講演会に参加して .
3.
物部氏の本拠地 天理市布留遺跡 再訪Walk  2012.5.19.
  遺構・遺物の出た場所を意識して 布留遺跡を歩く
3.1. 天理教神殿ほか天理教本部(布留遺跡三島調査地区)から丘の上 布留の十字路へ .
3.2. 布留川の扇状地への流れ出口 「布留」交差点 周辺
3.3. 布留の十字路から天理大学キャンバス・天理参考館へ 布留川南岸の杣之内地区 
物部氏の布留川対岸の本拠地 生産工房や居館が立ち並び、
大溝が開削されていた杣之内地区
3.4. 午後 再度 布留の丘から石上神宮へ
参考1.  布留遺跡から出土した遺構・遺物の一覧 .
参考2. 〔和鉄の道〕石上神宮の国宝「七支刀」の復元展にあわせて
                物部氏の本拠 地 布留を訪ねる  2006.3.
       http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/6iron05.pdf
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ヤマト王権の軍事部門を担い、兵器庫である石上神宮の祭祀を司り、ヤマト王権の中枢に君臨した物部氏の本拠。
物部氏が居館を構え、多くの渡来工人を集め、「鉄器」や「玉作り」などの生産工房をこの布留で営んでいた。
大和王権にかかわる豪族たちが 国づくりに不可欠な鉄器生産工房を経営し、勢力を伸ばしてゆく。 
古墳時代 ヤマトで営まれた有力豪族たちの鉄器工房群のひとつ物部氏の「布留」。
古墳時代の様相を明らかにする遺構や遺物が多数出土し、弥生時代から大和王権が確立してゆく過程を知る重要な遺跡である。
天理市布留には何度かでかけましたが、「布留遺跡」の正確な遺構や遺物の出土位置もよく判らず、出土遺物も垣間見る程度しかない。
本で読んだり話を聞いたたりの知識で作り上げた「布留遺跡のイメージは初期ヤマト王権の鍛冶工房・武器工房」。

「邪馬台国から初期ヤマト王権へ 日本誕生に重要な役割を果たした鉄」とよく言われますが、、
 大和の鍛冶工房の遺構・遺物は限られていてなかなか その鉄の実像が見えてこない。
「古墳時代の幕開けを作った大和の鉄」の位置づけが いつも自分の頭の中でしっくり行かないのです。
 

本年5月 天理参考館で「大布留遺跡展」、橿原の橿考研博物館では「三国志の時代 2・3世紀の東アジア展」が開催中。
それぞれで「古墳時代の鉄」・「朝鮮半島との交流」に関係した関連講演内が開催されるのを知って、
しっかり勉強してこよう。特に初期ヤマト王権を支えた物部氏の鉄器生産工房や朝鮮半島交流などしっかり勉強してこようと。
 
特に布留遺跡の位置は現在天理教本部の諸施設が建つ敷地全体とは聞き、遺跡の位置づけや解析の図は何度も目にしましたが、
遺跡全体を捉える遺跡展はみたことがなく、楽しみで出かけました。
この布留遺跡の南側にある纏向遺跡が初期ヤマト王権の都であるばかりでなく、邪馬台国の都であるとの説が脚光を浴びている。
この邪馬台国大和説に乗って「朝鮮半島の鉄を独占する北部九州勢力に対抗する西日本諸国連合が邪馬台国連合」とする説もとなえられて、この時代の「鉄」に注目が集まる。マスコミや話ばかりが先行しているのですが、見聞が増えるにつれ 私には ??マークだらけで頭はもやもや・・・。この弥生終末期から古墳時代の「鉄」に疑問点が多く、どうもしっくりこないのです。
確かにヤマト王権の成立には武器・国土開発・祭祀(威信財)として鉄が重要だったとは思えるのですが、この時代 畿内・大和を見る限り、武器・農工具などの実用鉄器が北部九州に比べて 質・量とも乏しく、鍛冶加工技術もはるかに劣る。      
また、朝鮮半島交易・交流を北部九州を抜きにして、大和が直接関わっていたとは見えてこない。
大和が直接 半島交易したという証拠は見えず、この時代の交易の主体は やっばり国というより、玄界灘の海人族を中心とした中継貿易ではなかったか・・・・ そうなると日本へ入ってきた技術は半島のローカル技術といえなくもないが・・・・・等々 
ここ数年 邪馬台国 大和説が大ブームになり、朝鮮半島の鉄素材が邪馬台国を考えるキーワードのように言われてきましたが、
どうも その反省期。「大布留展」や橿原考古学研究所「三国志の時代 -2・3世紀の東アジア- 」展など本年関西で開催されているを見る限り、そんな気がしています。
                   2012年 5月 by  Mutsu Nakanishi
 
下記 昨年11月の記事ですが、インターネットに 面白い記事があったので 参考まで
【参考】朝日新聞ディジタル 「鉄を制するものは倭国を制す」        
    https://digital.asahi.com/articles/SEB201111150016.html
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