古墳時代 朝鮮半島との交流 の玄関口「若狭」を再度訪ねる     2011.8.30. 
脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学 &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk
 
3. 若 狭 Walk まとめ 
     古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ね     1110wakasa03.htm
     脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学  &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk
   大陸・朝鮮半島から大和へと続く東アジアの文物交流路・和鉄の道 
   その日本海側窓口「若狭」の実像が見えてきた
古墳時代 朝鮮半島の鉄そして先進文化を求 めて、大陸・朝鮮半島との交流が活発に行われていった時代 
「大和・畿内の日本海側 玄関口が若狭」と言われながら、日本海側の大陸への玄関口と言えば、北部 九州 そして山陰日本海沿岸で鉄を集積した麦木晩田・青谷上寺地遺跡 そして 玉造の出雲・丹後・ 北陸もある。
地理的には琵琶湖を越えれば大和や畿内の諸国へのルートがかくほされているが・・・・・。
大きな前方後円墳の若狭王の王墓群があるが、特別凄い製鉄関連遺跡もなく、どうも 自分では 日本 海側玄関口若狭の実像がはっきりしない。むしろ 氷上回廊のある丹後・但馬の方が日本海に至る道と してはよいのでは・・・・・・と。
「若狭が大和の大陸への玄関口。若狭街道で生まれた伝承てはないか。ひょっとして 和鉄の道 鉄と の関係があるかも・・・ 」と
軽く再度若狭を訪れたのですが、小浜の古い家並み 小浜港と北川・遠賀川・鳥羽川などの川筋が作る 狭い台地をめぐり、遺跡をめぐるなかで、遠い昔 古墳時代半ばから奈良時代にかけて 若狭がもっと も輝いた時代の姿が、具体的に見えてきました。

朝鮮半島の鉄 上中地域の前方後円墳もそうですが、遠敷の 地や遠敷川 鵜の瀬の若狭井伝承が生まれた大和との関係を持つ渡来人の足跡を見聞して、この伝 承を生んだ若狭の地形 土着の流れが、大和の大陸への玄関口「若狭」を生んだと・・・・
この道を朝鮮半島の鉄・大陸の先進文化を携えた渡来人そして日本各地の国の人たちがここで出会 い、往来。
若狭街道の古道 和鉄の道が形成された。 

         ● 季節風が吹きつける波の荒い日本海にあって まるで湖面のような静かな大きな海が広がる  
               巾着型の天然の良港 若狭の湊 そして そこから日本各地・大和へは安全な海路・街道が通じてい る。
              この地形が若狭繁栄の背骨となった。
        ● 玉造など特産品製作工具への実用鉄器の必要性から 北部九州に全面依存せず、
               大陸・朝鮮半島と独自接触を進めた出雲・伯耆・丹後・越の山陰諸国
               この日本海交易に着目し、出雲・丹後・若狭・北陸と山陰の諸国と日本海の交流を続けながら、
           さらに大きく日本海交易を展開していった大和。
          5世紀には 日本海側窓口として「若狭」を一大貿易拠点としてさらに大きく展開した大和と若狭
            それが垣間見える上中地域古墳群周辺諸国と大和の古墳築造の変遷
        ● 大和との強い結びつきを示す前方後円墳 若狭の王墓 上中地域の古墳群とそれらから出土遺物の 数々
              朝鮮半島系の遺物 鉄製品の数々 横穴石室に見る先進築造技術の取り込み
       ● 鵜の瀬伝承で知った国際性 
             この若狭には文化・技術を担った数多くの渡来人が居たのだろう。
             そして 日本の文化・技術の展開を担って 大和へ登って行った。 その象徴が鵜の瀬かもしれない と・・・
今回の若狭再訪で、1500年前 東ア ジア交流の真っただ中、多くの文物ばかりでなく、渡来の人も多く往来した国際的な海の玄関口 「若狭」と遠敷川 鵜の瀬の伝承がむすびついて、「若狭」の実像が見えてきた。大陸・朝鮮半島 から大和へつながる交流路「若狭」の象徴が鵜の瀬。それはとりもなおさず、古墳時代の「和鉄の 道」でもあった。
もやもやしていた若狭の実像が浮かび上がってきて 我ながらびっくりです。
今回の若狭walk で見聞したことや遠敷川流域・鵜の瀬walkで 解説案内板や見聞したことを再度整理して示してそのまとめとしたい。
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  古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若 狭」 見聞整理 by Mutsu Nakanishi
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1.古墳時代の大和と若狭ほか周辺諸国の古墳築造年代と形態の変 化推移比較図
   若狭ならびに周辺諸国の古墳の大きさや形態の変化から大和との距離感が大きく変化してくる様子がよくわかる。
   特に 4世紀の丹後から5世紀若狭への大和との結びつき変化に着目。大和の動きのち密さにびっくり。

4世紀丹後や越前で先に前方後円墳が作られ、
その後5世紀になって若狭での築造が始まる
のが見て取れる。
丹後では5世紀には前方後円墳がつくられなく
なり、小さな円墳が築かれるのみで、
その後消えてしまう。 
この時代 同時に若狭で前方後円墳の築造が
始まり、6世紀半ばまで続き、円墳の築造へと
移る。
2. 鵜の瀬 水送 り神事の舞台となった遠敷の郷 
    若狭の開拓神を祭る若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社 神宮寺と鵜の瀬 
● 「遠敷・おにゅう」の地名
   遠敷は「おにゅう」と読む。 非常に難解な地名であるが、古代からある由緒ある地名であ る。
   かつて「小丹生」と書いていたともいい、この地が水銀朱との関係があるのかもしれない。  
   また、「遠敷」の言葉自体には朝鮮語の「ウォンフー」に由来するとの説もある。
   この地は かつて リアス式海岸若狭の大河 北川・南川・多田川 3つの川海に注ぎ込む 河口にあり、
   巾着型の大きな内海に恵まれた天然の良港で、遠敷川を南の国境の山を越えて近江・大和と つながる若狭街道・東西には 
         日本海沿岸を結ぶ丹後街道が交わる若狭の国の中心地 
● 若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社 の由来[1] 小浜市のホームページより
   若狭一の宮は神社の記録によると、奈良時代初期にあたる養老5年(721)に創建された といわれています。
       若狭一の宮は上社と下社の総称ですが、ふつう上社を「若狭彦神社」、下社を「若狭姫神社」と呼んでいます。
         彦神社は和銅7年(714)遠敷郡下根来村白石に創られましたが、霊亀元年(715)現在の地 に遷社したとされています。
        祭神は彦神社は彦火火出見尊(山幸彦)、姫神社は豊玉姫命(乙姫)です。
        共に、海上安全、海幸大漁の守護神として信仰されています。
         --- 小浜市のホームページより抜き書き整理
        また、若狭の遠敷明神とは この若狭の開拓神 若狭姫(豊玉姫)の神(& 若狭彦(山幸彦)と言われている。
    遠敷の里は大和・京との結びつきばかりでなく朝鮮半島諸国とも強い結びつきがあったことがうかがえる。
● 若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社の由来[2] 神奈備 http://kamnavi.jp/ny/wakasa.htm  より
  祭神  若狭彦神社 彦火火出見尊、若狭姫神社 豊玉姫尊
      由緒  若 狭国遠敷郡の式内名神大社で若狭比古神社二座に該当し、元正天皇の勅願により715年に創建さ れたといい、
      通称若狭彦神社を上社、若狭姫神社を下社としている。両神は小浜市下根来の白石の里に降臨したと伝わり、
      白石神社が鎮座している。 
      降臨の姿としては、唐人のいでたちで、白馬・白雲に居て、白石の上への垂迹であったと云う。
   「白」が並んでいるのは「新羅」との関連を思わせ、また「白石」は「新羅」の転化との見方もある。
      降臨地より少し下った清流の屈曲する深淵を鵜ノ瀬といい、東大寺二月堂の若狭井の水源とされるお水送り神事が
      行われている。
      二月堂の修二会では神名帳を読んで諸神を勧請したが、当社の遠敷明神は漁を行って、はせ参じるのが遅れ、
      遠敷明神はお詫     びとして、二月堂十一面観音にお供の閼伽水を送ると約束したと云う。
      東大寺の大仏建立には金が必要で、それを得る為には水銀に金を溶解して大仏に塗布し、
      熱で水銀を蒸発して金メッキを施すが、その水銀が当地でとれたのかもしれない。
      若狭国には丹生郡があり、その一宮として遠敷明神と称えられたのかもしれぬ。         
                        神奈備 http://kamnavi.jp/ny/wakasa.htm  より、一部抜出し
● 神宮寺
     神宮寺は奈良時代の初め、若狭一ノ宮の遠敷明神(若狭姫)の神願寺として創建されたことに始まるといわれ、
     さらに、若狭彦姫神を根来白石より迎え、神仏両道の寺とした。
     鎌倉時代に神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)と遠敷明神下社(若狭姫)の別当寺となり、神宮寺と改称したとされてい る。        これら鵜の瀬の伝承に登場する若狭彦神社・若狭姫神社・神宮寺は遡るといずれもそのルーツは鵜 の瀬「白石神社」であ
     り、若狭土着の開拓神 遠敷(おにゅう)神の聖地「鵜の瀬」である。
     そして、この鵜の瀬は大和・近江と大陸・朝鮮半島への玄関口若狭を結ぶ最短の若狭古道が通り、若狭への入口に当たる位
     置にあり、この遠敷の里は大和・京との結びつきばかりでなく朝鮮半島諸国とも強く結びついていたことが強く認識さ
3.遠 敷川 鵜の瀬 お水送りの由来 
鵜 の瀬 鵜の瀬公園資料館にあった奈良東大寺お水取りと若狭 鵜の瀬 の関係を解説した パネル
 鵜の瀬の川岸に立つ鵜の瀬由来記案 内板
鵜の瀬公園に立つ良弁和尚生誕地の碑案 内
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古墳時代 朝鮮半島 との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる 2011.8.30.
脇袋古墳群など若狭の王墓 からの出土品見学 &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk
[完]
. 古 墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再 度訪ねる 2011.8.30.
脇袋古墳 群など若狭の王墓からの出土品見学  &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk 
1.
若 狭「上中 熊川宿&脇袋古墳群  walk  2008.9.1.」 
【和鉄の道】大陸・朝鮮半島の鉄をもとめて続く若狭・北 近江の「和鉄の道」を訪ねる 2008.9.1.
          2. 若狭「上中 熊川宿 & 脇袋 」より抜き出し
2. 古 墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再 度訪ねる 2011.8.30.
脇袋古墳 群など若狭の王墓からの出土品見学  &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk

2.1. 古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口 若狭 小浜の港

2.2. 若狭町歴史文化館で上中地域古墳群の出土遺物展示を見る

2.3. 若狭と大和の深い関係を示す 若狭遠敷(おにゅう)川 鵜の瀬の水送り
3.
若 狭の国 Walk まとめ 
大陸・朝鮮半島から大和へ と続く東アジアの文物交流路・和鉄の道 
     その日本海側窓 口 若狭 その実像が見えてきた
【参考資料】
  1. 若狭町歴史文化館 常 設展示図録

2. インターネット  google  検索  ◆若狭 一の宮 若狭彦神社  ◆若狭上中地域 古墳群 ほか  .

3. 【和鉄の道】
大陸・朝鮮半島の鉄をもとめて続く若狭・北近江の「和鉄の 道」を訪ねる  2008.9.1.   
 分水嶺「水坂峠」の両側にある北近江「高島 熊野本」と若 狭「上中 熊川宿 & 脇袋」
     http://www.infokkkna.com/ironroad/2008htm/iron4/0810wksa00.htm

 
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1.大陸への玄関口  若狭・北近江2008収録
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1110wakasa03.htm    2011.1010. by Mutsu Nakanishi