home page top
新着monthly page2020
 
和鉄の道2020
風来坊2020
四季折々・from Kobe
和鉄の道 file DOCK
全ファイル収蔵庫 top

.

 

【 古代鉄 私考    古墳時代の幕開け 】

4.一筋縄ではいかぬ古墳時代の幕開け 激動の時代 淡路島がその鍵を握るのか ????
淡路島で発掘された卑弥呼の時代の日本最大級の鍛冶工房村の位置付けに思いをめぐらす

2009.4.5.  repoaw00.htm  by Mutsu Nakanishi


1.縄文晩期 土器の相互移入が解き明かす諸国間の交流 
  互いに交流する諸国の真っ只中で 淡路島は 周辺諸国との交流が乏しかったという
 
1月23日 新聞紙上で「卑弥呼の時代の国内最大級の鍛冶工房村が淡路島北部で出土 」 と報じられ、
卑弥呼の鍛冶工房村なのか????
また、この鍛冶工房が古墳時代幕開け 大和倭国連合による日本統一のさきがけ か????
神話の島 淡路島での出土に 古代のロマンをあれやこれや膨らませ、1月25日 発掘調 査された淡路市の垣内遺跡現地説明会にも参加し、10棟を超える鍛冶工房の出土に本当に驚きました。 
鉄がさほど畿内に持ち込まれていないと考えられていた時代に びっくりする大きな鍛冶工 房村が淡路にあった。
まだ、詳細な調査報告もでていないし、この鍛冶工房村の性格や位置づけはこれか ら・・・・・・。
古墳時代の幕開けを演出した鍛冶工房村ではないか・・・・と勝手に思い込み、あれこれ思いをめぐらせる のですが、
でも どうも 腑に落ちない。 
本当のところこの時代 淡路島の位置づけはどうなのだろうか????。
古墳時代・大和王権へと繋がってゆく鍛冶工房村だったら、古墳時代 この淡路 に大きな前方後円墳が築かれても不思議でないと思うのですが、前
方後円墳もこの時代に始まる大型墳墓も淡路島では見つかっていない。 
また、淡路島は後の時代に「御食国」と重要視されながらも、戦国時代に至るまで、阿波国の一部と見 られてきた。
出土した国内最大級の鍛冶工房村 垣内遺跡からは 家島群島・男鹿島が見える瀬戸内・播磨灘 そしてそのすぐ横に播磨の海岸線が 手に取るような近さである。
この時代、大和を中心に西国の諸国が倭連合を作り、それが軸となって、大和王権が成立する黎明の時代。
大和巻向に邪馬台国があったかどうかは別にして、大和には大きな勢力があり、大和・河内と密接な関係を持つていたといわれる阿波・吉備・讃岐・播磨の諸国  そして淡路島の人の動きば どうだったのか・・・・
特に 淡路島 北部からは すぐ先に見える播磨との関係はどうだったのだろうか・・・
不思議に思って、以前 話を聞いたふたかみ邪馬台国シンポジュウム6資料集「邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和」(香芝市教 育委員会・香芝二上山博物館)やシンポ資料「『倭国』連合の成立と姫路地域の役割」 (2008.3.22 兵庫県立考古博物館 姫路埋蔵文化センター  )を引っ張り出して 資料を読み出してビックリ。

卑弥呼の時代から古墳時代への過渡期 東瀬戸内地 域の諸国と大和との関係は一筋縄ではいかぬ。
特に 西から瀬戸内を経由して大和・河内へいたる 道の入り口にある淡路・摂津西部は特異な様相を示しているという。
この古墳時代前夜の黎明の時代 他所から移入する土器を手がかりに周辺諸国との交流を観ると、淡路 島 そして、対岸の摂津再西部では、
周辺諸国が活発な交流をしているのにもかかわらず、ほとんど交流がみられが、独自路線。
そして、縄文晩期 古墳時代の幕開けの尺度と見られる庄内式土器・布留式土器の流入が周辺諸国に比 べもっとも遅いという。



                                                     シンポ資料「『倭国』連合の成立と姫路地域の役割」 (2008.3.22)  より

いろんな伝承があり、 周辺諸国は活発な交流をしているのに、ちょうど その真っ只中で 淡 路島は沈黙し、独自の路線を黙々と進む。
周辺諸国にきそって、庄内式土器・布留式どきがはいるのに??????

なんとも 不思議である。
淡路で何がおこっているのだろうか・・・・・
上記 ふたかみ邪馬台国シンポジュウム6「邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和」の資料の中で、
弥生時代の遺跡発掘に詳しい森岡秀人氏(芦屋市教育委員会)はこの時代の「淡路島」について、次のように指摘している。
 
東瀬戸内地域を今回論議されるテーマに則し て限定すれば、
阿波・讃岐・播磨ということになろうが、東瀬戸内地域の範疇に加えておきたい地域が淡路や 摂津西部であり、
これらと関連する播磨東部も同西部地域とは異なった意味で検討を要する地域である。

私はこの二つの地域の邪馬台国の時代の動態にも注意を払ってきたし、
東瀬戸内では幾分変わった動きを示す地域として看過できないと考えている。   ・・・・・・・

淡路は従来該期の古墳や墳丘墓が少ない上、上記したメインの三地域との交流が乏しい 地域と考えられてきたため、
基礎的検討が敬遠され、その評価が著しく低かったが、
一定の地域性が認められる点において島内でクニの萌芽を考えてみる必要があるだろう。
2〜3世紀にどのような役割を果たしたか検討すべきではなかろうか。

律令期、淡路は天皇に食料を貢納する「御食国」とされ、中央政権と直結する役割をは たす。
摂津西部は中河内に地域に近い地域ながら、庄内式併行期の土器相はかなり異なってお り、・・・・・・・
様相は複雑である。
結論を急ぐ必要はさらさらないが、・・・・・・
   
  ふたかみ邪馬台国シンポジュウム6
    「邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和」資料   森岡秀人「東部瀬戸内と大和」 より

この時代の淡路には何かある。 
先に淡路島で出土した国内最大級の鍛冶工房村についても、 この時代の淡路島の特異な状況を踏まえて  考えねばならない。
以下、上記した資料に掲載されていた周辺諸国の動きを抜粋すると共に、この時代の淡路や周辺諸国の製 鉄技術関連の動きについて、
気になることを書き出してみました。
 
1. 北播磨は山陰・中国山地と続く古い製鉄地帯 弥生の鉄の大集積地  
北九州⇒出雲⇒麦木晩田⇒青谷上寺地 吉備・播磨と続く「鉄の道」が見えている。  
そして、すぐ対岸の東播磨の海岸線 加古川河口の右岸近くには 強力な鉄器工具を多数用いなければ、到底作ることが出来ない謎の古代石造物「石の宝殿」が あり、出雲の神を祭り、また、時代は下るが、播磨風土記には物部氏との関係が記されている。
2. 淡路には「国生み神話」があり、淡路島の南の端 由良の紀淡海峡を望む岬の突端に新羅神社 がある。 
そのルーツは良く調べていないが、淡路の鉄を調べる手がかりになるかもしれないと記憶にある。
3. 畿内周辺の製鉄技術を考えてみる。 
時代は下るが播磨風土記には北播磨を中心に数々の製鉄伝承がある。 
製鉄技術黎明の時代に 朝鮮半島渡来神や日本海沿岸諸国からの鍛冶技術の導入など播磨における製鉄技術伝承が数々記載されており、北播磨を舞台に数々の新 しい製鉄技術が持ち込まれ、鉄づくりが行われるとともに、技術抗争も生んだことが記載されている。
4. 一方 淡路島では、この垣内鍛冶工房遺跡とともに周辺には数多くの高地性集落が現れ、共に 消えていくという特異な事実が見つかっている。 
同じような独自地域集団がいたとみられる淡路島対岸の摂津西部地域 播磨との境 六甲山系の山々が海峡に落ちる西側の丘陵地の山裾 明石平野には数多くの 高地性集落が現れ、そして それらが消えていくと共に 淡路島とは対称的に数々の古墳群が現れ、西日本諸国と大和をつなぐ重要地点であったことを示してい る。
これらをかんがえあわせると 
淡路島と周辺地域の動きを考えると淡路島・明石海峡と西六甲須磨の山々が大和と西日本諸国とをつなぐ道の壁となって立ちはだかり 
(この地の勢力なのか 自然的な地形なのか その両方なのか 良くわからないが・・・)、 
この地が倭国連合の中に組み込まれることにより、大きく古墳時代への幕開けへと動いたのではないか・・・・・ 

この仮定には 摂津・播磨の国境地帯がこの時代 陸路も海路も非常に不安定で、大和と西国諸国を安定につなぐ道の確保が朝鮮半島の 「鉄素材」の確保と共に大きな課題だったのではないか・・・・・。 
特にこの道を通ってもたらせる大陸・朝鮮半島の最新技術・先端技術の優劣が直ぐに諸国の力に結びついていたのではないか・・・・・ 
まさに 鉄の道の攻防戦が この播磨・摂津西部・淡路・阿波の瀬戸内東端で繰り広げられたのではないか・・・ 
この時代を経て、 大和を軸とした国づくりがばじまったのではないか・・・・ 

空想とは言い切れない。 
まだ、本当に妄想にすぎませんが、そんなイメージを抱き始めています。 

卑弥呼の時代から古墳時代への過渡期 東瀬戸内地域の諸国と大和との関係は一筋縄ではいかぬ。
特に 西から瀬戸内を経由して大和・河内へいたる道の入り口にある淡路・摂津西部は特異な様相を示している。
このことが、同時に西国から紀ノ川や熊野・吉野の日本神話のルートにも大きな影響をあたえたのでは・・・・
卑弥呼の邪馬台国の九州・大和論争と同時に もうひとつ 畿内には「淡路島」の位置づけを解かないと 
古墳時代の幕開けが見えないのではないか・・・・と思い始めています。



.
|<最初頁 <<前頁 < repoaw01.htm > 次頁>> 最終頁>|

 

.