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広島県備北のたたら製鉄地帯   

11.  歴史の山 比婆山(御陵)1256m とその懐「六の原たたら跡」を訪ねる
奥出雲・北備・備北のたたら製鉄地帯の中央を東西に貫く中国山地 吾妻山・比婆山 
 古事記伝説の比婆山に抱かれたたたら製鉄跡 六の原たたら跡を訪ねる

2.比婆山 六の原製鉄場跡 概 説
庄原市西城町油木大字大岩谷  2008.11.15.
西城町史資料「六の原製鉄遺跡発掘調査報告書(広島県遺跡)」より    0811hiba02.htm
 
県民の森入口 比婆山(御陵)を背に中央広場が広がる六の原 
 中央左の森の手前の芝生原が元六の原たたら場跡
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比婆山の登山基地   たたら跡が残る西城町六の原 県民の森


◆ 比婆山 六の原製鉄場跡 概 説 ◆
1. 六の原  たたら場跡
2. 六の原  鉄穴流しの洗い場 復元遺構
3. 六の原  たたら場の操業年代
4. 鉄穴流し 洗い場諸施設の機能
5. 備北 比婆山・吾妻山周辺にみられる砂鉄採取による地形変化           
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◆ 歴史の山 比婆山(御陵)1256m とその懐「六の原たたら跡」を訪ねる の 先頭のPageへに戻る

広島県民の森のある六の原は平坦で長い頂上部を持つ比婆山のなだらかな南斜面の両側の肩から流れ下る二つの谷川がY字で合流する山中の平坦地で、 ここからまた合流した川(鳥尾川)は狭い谷間を南東へ流れくだり西城町油木で西城川に合流する。
比婆山の北肩に続く烏帽子山と毛無山の鞍部出雲峠から東へ流れる谷川鳥尾川と比婆山(御陵)の南肩と立烏帽子山の鞍部越原峠からまっすぐ北東に流れ下る谷川六の原川の合流点が六の原で、二つの谷が一つになってさらに南東へ下ってゆく。
この六の原に広い中央広場・園地やビジターセンタなどを整備して中心基地とし、周りを取り囲む立烏帽子山・比婆山・毛無山の山々に広がる森にハイキングコース・遊歩道などを整備して県民の森が整備されている。
六の原製鉄場跡(たたら跡)は,県民の森入口の南北を渓流に挟まれた低平な丘陵上に位置する。
この六の原の二つの谷川を隔てるなだらかな丘陵地の突端部 六の原川の左岸の小さな丘の前にかつて六の原製鉄場があり、背後の小さな丘に金屋子神社が祭られている。そして、ここから六の原川をさらに約200m遡った山裾側に鉄穴流し場があり、この周辺部に砂鉄採取のため山を切り崩した切羽(鉄穴場)もあったという。昭和47年(1972)、県民の森造成工事に伴う調査を広島県教育委員会が行ない製鉄炉遺構が出土し、たたら場の概要が明らかになった。
地上の炉部分は既にないが、炉の地下にある床釣の施設 比較的簡略化されたものであるが、
本床、小舟など本床釣の遺構がよく残っていた。また、この東側からも 1部分重複して古い本床釣が出土している。
これらの製鉄炉の操業年代は明確ではないが、文献などから近世 江戸時代の末から明治時代初期までの製鉄炉と見られている。 
送っていただいた西城町史資料「六の原製鉄遺跡発掘調査報告書(広島県遺跡)」をもとに その六の原たたら場ならびに鉄穴流し場遺構の概要を紹介する。


     先頭に戻る          ◆ 比婆山 六の原製鉄場跡 概 説 ◆
 
 


比婆山 六の原製鉄場跡 概 説 
庄原市西城町油木大字大岩谷  2008.11.15.
 西城町史資料「六の原製鉄遺跡発掘調査報告書(広島県遺跡)」より
2. 比婆山 六の原製鉄遺跡跡 概説
2.1. 六の原 たたら場跡
2.2. 六の原 鉄穴流し洗い場遺構
2.3. 六の原 たたら場 操業年代
2.4. 鉄穴流し洗い場諸施設の機能
2.5. 備北の比婆山・吾妻山周辺にみられる砂鉄採取による地形変化

1. 六の原たたら場跡
 
たたら場があった園地と背後金屋子神社の森
広い緑地公園に整備された六の原たたら場
森は金屋子神社 
中国山地の中央部の山々が東西に連なるこの吾妻山・比婆山・道後産の一帯は花崗岩を母岩とする地帯で古くから砂鉄の産地であり、これらの山々の両側は古くからの製鉄地帯で、六の原たたらの付近にも「古屋敷」・「一の原」・「一の瀬」などのたたら跡や鉄穴跡が残っている。昭和47年(1972)、県民の森造成工事に伴う調査で、大岩谷川(六の原川)の左岸 金屋子神社の前から2箇所のたたら跡が出土した。以前にはたたら跡の北側にも小さな丘があったが、県民の森建設でなだらかに傾斜する平芝生地に削平されてしまっている。なお、県民の森にいたる途中の一の原にも、床釣の施設がある。
       注 大岩谷川を前に背後を小高い丘陵地と金屋子神社の丘がたたら跡を取り囲んでいたと考えられる。
             一瞬 こんな広いオープンスペースにたたら場?? と金屋子神社の丘の回りを歩いたりしましたが、これで納得
2_1_09006.jpg
発掘された六の原たたら場(平成4年頃)   中央に床釣の遺構がみえる
六の原たたら場 たたら場遺構概要
● たたら場 A

たて12m 横5m 深さ1.5mのほぼ長方形に掘り下げた壙の中にたたら炉の下部構造が作られていた。床最下層に大きい礫を並べその上に真砂土層と鉄滓を含む土層、粉炭層などを積み上げ、この上に本床と一対の小舟を築いている。
2本の小舟の間隔が90センチと狭いので小舟の内側の壁をそのまま本床の壁として利用していたようだ。
この上に築かれたたたら炉や高殿についてはなくなっていて、明らかになっていない。
● たたら跡 B

たたら跡Bもたたら跡Aとほぼ同じ構造と考えられるがたたら跡A を作るときに壊され、わずかに小舟と本床の一部を残すのみだった。
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2. 鉄穴流しの洗い場

    鉄穴流しの洗い場跡の案内板                          鉄穴流しの洗い場と平行して流れる大岩谷川
六の原の洗い池はたたら跡から西へ約100m大岩谷川を遡ったところから昭和47年の調査で上手の洗い池と下手の洗い池の二ケ所の洗い池が発見された。その後 平成元年の発掘調査でさらに上流部をなす3つの池が明確となり、砂溜・大池・中池・乙池・洗樋の5つの洗い池を持つ鉄穴流し場遺構全体がほぼ明らかになった。現在洗い池諸施設の遺構の上にそれぞれ諸施設が復元され鉄穴流しができるようになっている。ここでは、大池、中池、乙池が2本平行してあるところに特徴がうかがえる。交互に砂鉄採取のできる大がかりな装置である。 
   (注 西城町史資料編には 平成元年の発掘調査は収録されておらず、現地案内板から補足
 
砂溜 & 大池 
  中池 & 乙池
乙池・樋
                                             復元された六の原鉄穴流し 洗い場遺構  2008.10.17.

● 昭和47年で発掘された 上手の乙池  下手の洗樋 (西城町史資料編より)

  上手の池 乙池周辺  2008.10.17.               下手の池 樋   2008.10.17.

上手の洗い池 (乙池) 

下手の洗い池(樋)

乙池と洗樋の結合部
上手の洗い池は2本並び、いずれも長さは13m 幅は上方で120センチ 下方で50センチと狭くなっており、
両側の壁には石が積み上げられ、底には板が敷かれていた。 
下手の洗い池は一本だけが明らかになりましたが、上手の2本の溝が合流する地点から直角に曲がって続いている。
長さは約13mで 幅は連結部で60センチ 中央部110センチ 下方で50センチと胴が張った形。
しかも連結部は大きな石を2段にして階段状にする工夫がされている。
いずれの溝も下端の両側に木を縦に打ち込んだところがあり、樋門の跡と考えられる。 
上手の池の上流には洗い池と見られるくぼ地が まだ2.3ケ所存在していることや下手の池と上手の池の連結部に階段状の
施設が施され、砂鉄の精選と見られることなどから、 発見された上手にまだ洗い場があり、
今回見つかった二つの池は乙池と洗樋と考えられる。
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3. 六の原たたら跡の操業年代
このたたら跡の操業時期を明確にする遺物は出土しなかったが、隣接する金屋子神社に残る棟札が手がかり。
一番古い棟札は1871年明治4年で、この頃すでにこの六の原でたたら操業が行われていたと考えられる。
また、隣の東城町に残る奴可郡「郡務聚拾録」に嘉永年間(1848〜1853)に六の原大岩谷に鉄穴があったことが、
記載されている。
これらのことから、江戸時代の終わり頃からこの地で製鉄を行っていたと推定される。
4. 鉄穴流し洗い場諸施設の機能  「たたら 日本古来の製鉄」より
鉄穴流しの洗い場はいくつも見たことがあるのですが、川の流れを利用した浮遊選鉱法程度しか考えていなかったので、鉄穴流し洗い場の池(溝)にそれぞれ決まった名前があることなど気にも留めていませんでした。
今回 この一連の洗い池について 意識したのは初めて。
案内板にかかれた解説でも具体的な操業についてはピンと来ず。
また 明確に名称区分された洗い池の機能もどうもよくわからず。
いったいどんな役割なのだろうか・・・・と
資料を調べました。

  【鉄穴流しの諸施設と操業の一例  財団法人JFE21世紀財団「たたら 日本古来の製鉄」より


砂鉄を採取する場所を鉄穴というが、砂鉄を含む花崗岩の風化した山の崖である。 そこで 崖を切り崩し砂鉄混じりの土砂を採取し、

そこから谷川の水を利用して砂鉄分だけを沈殿させる下場へこの土砂を送り込み、下場にある普通5つに区分された洗い場の池で、
流水を利用した浮遊選鉱で、砂鉄のみを精選する。 この鉄穴山と下場をつなぐ流れを「走り」という。
下場では「砂留」とその下方に「出切り」とその下流に「大池(初池)」「中池」「乙池」「樋」の洗い池が続き、
それぞれに堰が設けられ、 砂鉄混じりの土砂を溜めたり流したりできるようになっている。
それぞれの洗い池では砂鉄混じりの土砂を撹拌して、土砂を浮かし堰を越えて川に捨てる。
そして、次の池に移して同じことを繰り返し、この浮遊選鉱・比重選鉱)法で土砂から砂鉄を精洗する。 
これにより0.3〜05の砂鉄を含む原砂は80%程度砂鉄を含む製鉄原料に精選される。
したがって、鉄穴は容易に水の流れが得られる場所が最も重要な場所である。
 
鉄穴・切羽 砂鉄採取
下場に砂鉄混じりの土砂を送る「山走り」
日本列島の砂鉄分布

 

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5. 備北この比婆山・吾妻山周辺にも見られる砂鉄採取による地形変化
    擂鉢状地形の中に残丘・池 そして 棚田・放牧地の風景
    
参考 北播磨 砥峰高原の砂鉄採取跡の残丘 
砂鉄採取により切り崩された採取跡は支谷が土砂でうずめられ、山の斜面がえぐられた平坦な擂鉢状の地形の中にいくつもの残丘や池が点在する地形となる。
もちろん植林された場所では緑に覆われ、痕跡が見えなくなったところもあるが、残丘が点在する放牧地や棚田として、美しい景色を形成している場所がある。今回の比婆山walkは駆け足だったため、それらを訪ねられなかったが、地図を眺めるとそんな痕跡を示すと思われる場所が比婆山・吾妻山の周辺にいくつも見られる。吾妻山の南比和町三河内の残丘の残る棚田風景  六の原などがそれに当たるという。
 
吾妻山の南比和町三河内の残丘の残る棚田風景 
吾妻山池の原に残る残丘と池


 
【  参 考 & 引用転記資料 】
1.  西城町史資料編「六の原製鉄遺跡発掘調査報告書(広島県遺跡)」
2. 「たたら」 さとやま古代たたら倶楽部
3.  「たたら 日本古来の製鉄」財団法人JFE21世紀財団
4.  インターネット検索 「広島の文化財・ 六の原製鉄遺跡」より
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/data/206120800.html
5.  インターネット検索 「広島百科・六の原製鉄場」より
http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=689
 
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                                2008.11.15. Mutsu   Nakanishi   作成                  .

0811hiba02.htm   2008.11.10.  by Mutsu Nakanishi